柳達は工芸品の調査、収集のため全国を訪れました。今までに多くの工芸品は絶え、多くの窯場は閉窯しました。
現在、地方の資材、風土を生かして製作している窯場を北から南へ探してみたいと思っています。
柳宗悦や民芸運動の指導者たちが東北の各地を巡り、焼き物の強さ、美しさを称えたのは昭和6年から11年でした。
その当時挙げられた窯元と焼物です。
会津本郷焼 「鰊鉢」、切立(甕)
成島焼 鉢、甕、片口
新庄東山 土鍋、 湯通、 甕
堤焼 土釜、七輪、焙烙,厨子
楢岡焼 壺、甕,鉢、甕、片口
「地域生活に忠実、役に立つものは美しい」と生活用品の美の本質を説いたのですが、これらの焼き物は 生活様式の変化に伴って作られなくなりました。
今までこのコーナーで取り上げた民芸の伝統を持つ窯元が新しい今の生活様式に対応した焼き物を生み出してくれること、 一部の愛好家の嗜好品にならないことを望みます。
余談ですが、バーナードリーチの師が6代乾山浦野繫吉,その師が三浦乾也(尾形乾山の陶技を伝授される)。
三浦乾也が仙台藩に招かれてからの弟子が乾馬窯の針生乾馬、その弟子が三輪田窯、津軽千代蔵窯(小山揚久)
この様に門外不出の「乾山秘書」に書かれた技術が次から次と受け継がれていました。富本も晩年、「乾山楽焼秘書」の研究に熱心だったそうです。
岡山県
岡山県 倉敷堤窯
倉敷美観地域に大原美術館があります。多くの名画を所有している美術館ですが、 ここに椿貞雄の油彩画「菊子立像」があります。最初に見たときは「麗子像」のイメージが強すぎて。あまり良いとは思いませんでしたが、
数十年たって、今はこの初期の作品にも椿の「個性」を感じられるような気がしています。
倉敷といえば高梁川沿いの静かなところに、民芸運動の仲間と交流があった「堤窯」があります。
太原美術館初代館長の息子の武内晴二郎氏から息子さん(真木氏)に受け継がれていて、魅力的な作品を多く見ることができます。
鉄絵海鼠釉方壺 20x18x18cm
飴釉角鉢 17x17x5cm
岡山県銘菓
柚餅子 土屋 天任堂
堤窯の近くを流れる高梁川の上流に柚子を使った餅菓子で有名な「天任堂」があります。
吉備高原の山々に囲まれて、寒暖差が大きく、柚木の栽培に最適なところで、
江戸中期頃から松山藩主への献上品として作られたのが始まりだそうです。
兵庫県
兵庫県
中部地方にも有名な窯はあるのですが、柳の評価は低くあまり取り上げられていません。「風土を生かした手仕事の焼き物」に拘った感があります。
よって、評価の高い兵庫県を交えた中国地方、九州、沖縄へと進みます。
丹波立杭焼 丹窓窯
丹波焼は平安時代の焼き締め陶器から始まり、江戸時代後期には釉薬や技法が多様化していきます。又、多種の徳利の生産でも知られていました。
柳はこの丹波焼を高く評価していて「模様もあまりなく、流した線が主で、色も白と黒のごく質素で、謙遜深い性質や純朴な趣を与える」と言っています。
丹窓窯も江戸時代に創業、7代目の丹野茂良の民芸運動の参加によって柳、濱田、河井、リーチとの交流が始まり、特にリーチが何度も訪れた「ゆかり」の窯です。
茂良はイギリス、セントアイビスのリーチ工房でスリップウェアの技法を習得し、丹窓窯の主力商品としました。
現在の丹窓窯は奥様が8代目を継がれています。今回の作品は何の変哲もないスリップウェアマグと皿ですが、地の白とスリップの黒とのコントラストが明るくモダンな雰囲気を醸しています。
又、使っているうちに落ち着いた「和」の雰囲気も感じられます。柳の言った「丹波の伝統である素朴さ、謙虚さ」の心が籠っているのでしょう。
リーチとの交流でスリップウェアという西洋の技法を用いた焼き物に大きく舵を切った丹窓窯ですが、丹波立杭の伝統を継承し、民窯としての役割を変えていません。
丹波篠山の名産
丹波木綿の着物です。40数年前に丹波篠山で購入し後に仕立てたものです。
丹波栗 丹波篠山の銘菓井上、最高級の丹波栗を使用した洋菓子と和菓子です。
2022/10/31
福井県
福井県
越前焼
越前焼は平安時代から始まり、甕、すり鉢、壺などの日用品を製作してきたが、江戸後期ごろから衰退し、
瀬戸の磁器や九谷の色絵の技法を取り入れ食器等を生産するようになりました。しかし、それも失敗に終わり、
大正初めには廃業に追いやられています。
現在、県の補助の上で越前町に「越前村」を作り越前焼の復興と継続を目指しています。基本は地元の土を使用した焼き締め陶器ですが、今一つのようです。
各方面から多くの陶工が越前町に集まり、それぞれの作品を製作しています。福井県内で作られる陶器は全て越前焼に統一したようです。
他の古窯も生活習慣の変化と需要の減少に苦しんでいますが、伝統を大切にしながらも、新しいデザインに挑戦して新しい需要を生んでほしいと思います。
柳宗悦が訪れ注目した焼き物は氷坂焼で同じ越前町氷坂に合って、焼き締め陶器を製作していました。「黒の胴に白の流し釉をたらし、壺や甕を主に焼く。陶器の少ない北陸では大切にされてよい仕事」
と書いています。(氷坂焼はのちに越前町の越前焼に統一された)
「越前村」で製作されている窯の作品をいくつか挙げてみます。
福井県銘菓
御素麵屋
元禄12年(1699年)和菓子店として創業、そして260年後の1960年に洋菓子店設立。
現在人気の和菓子かりんとう饅頭は2010年発売になっている。
時代の激しい変化にもうまく対応して300年以上も営業を続けてきたことに感心させられます。
御素麺屋のリモーネとフィナンセ、その取り合わせが気に入りました。
富山県
富山県
越中三助焼(さんすけ)
チューリップの里で知られる富山県砺波市において、地元の土と釉薬を使用して150年作陶を続けている窯です。
砺波市の福山丘陵一帯は陶土に恵まれ、奈良、平安時代より生活用品の製造がおこなわれていました。
この良質の土と草木の釉薬で、淡く、深い緑色の素朴な作品を生み出しています。バーナードリーチも
訪れて、力強さ、渋さ、奥深い艶色を激賞したそうです。料理を生かす器として地元の旅館の料理長達から高い支持を受けているそうです。
銘菓
しろえびせんべい 「ささらや」
富山湾の宝石と地元で親しまれている有磯海の深海に生息する「白エビ」を使用した煎餅。全国展開している有名なお店なので迷ったのですが、 創業者の川合宣之が戦時疎開の為、福光町に移住してきた棟方志功と交流を持ち、志功の創作活動を支援したと知り取り上げました。
志功は1954年まで住んでいて、この地の自然を愛し多くの作品を生み出しました。
新潟県
妻有焼(中魚沼郡津南町)
縄文土器で有名な妻有地方は日本最古の焼き物の産地の一つでした。
時代の変遷とともに焼き物文化は途絶えてしまいました。
現在の再興妻有焼は鉄分の多い妻有の土、コシヒカリの稲藁を燃やした灰の釉薬を使用しています。
黒く焼きあがるため化粧土を掛け、粉引、刷毛目、三島等の作品を製作してます。
李朝系焼き物が現代生活にマッチするかは疑問ですが、まだ始まったばかりですので新しい製品が生まれることを期待します。
米どころ越後が生んだ「名産品」笹団子
親しい友人から笹団子と三角ちまき(?)を頂きました。昨夜郷里の新潟より帰ってきたそうで、私たちスタッフと一緒に 食べながら、「笹団子」の話を聞かせてくれました。
初夏の笹が綺麗な時期、子供の日や、6月30日から行われる蒲原まつりには欠かせない「新潟の味」だそうで、
今でも地域によっては家庭で作られるそうです。業者も多く冷凍で買うことはできますが、出来立ては美味しさが違うし、この時期に作り、食べることに意味がある この地方の文化なのです。「ハレの日」だけに作り、五穀豊穣を祈る大切な儀式で500年位前より中越、下越地方で始まったとされています。この笹団子が貴重なもので普段の貧しい生活の中での 一つの楽しみだったのかと思います。
今年の新潟県のおコメの豊作を祈りますが、先日、おコメの在庫が増えて米価が落ちているとのニュースがありました。コロナの影響でしょうが 心配です。
笹団子は(もちろん)とても美味しかったです。
(令和4年6月21日)
庵地焼旗野窯(庵地とは地名、現在の阿賀野市保田)
江戸末期頃の「越後地方の焼物」は70以上の窯が実用的、生活用具の焼き物を生産していて、日本海一帯で使われ栄えていました。
(すり鉢、漬物鉢、甕、行平、湯たんぽ、タンコロ(灯明器)等。)
明治に入り陶工旗野直太朗が郷里の庵地で保田焼として創業、昭和に入り「庵地焼」と改名、 他の窯が廃業に追いやられる中、旗野窯だけが存続し、今は子孫の3姉妹で「越後の民窯」を守っています。
3姉妹の窯、津村節子の小説のモデル。天皇陛下に献上、四代清水六兵衛、宮之原謙の制作した窯といった情報に左右されることなく(?)
器のすばらしさに感心しています。蹴轆轤で作成された器は手取りは重いですが。色は漆黒の庵地黒、深みのある黒色に魅了されます。
シンプルで、嫌みがなく、力強い、民窯の精神を持った器です。置いて使用する器は割れにくくするために頑丈に作られているそうです。
心を込めて作成された器は私の生活空間に仲間入りすることを拒んでいるように思えてなりません。
銘菓
翁あられ 大杉屋惣兵衛(400年続く飴菓子店)
米飴をあられ切りにしたほど良い硬さの淡白な味の菓子
天皇陛下お買い上げ(このフレーズに弱い?さぞかし上品な味だろうと思い購入)
上品な甘さで美味しかったです。
福島県
福島県
会津本郷 宗像窯
1719年創業、江戸中期に作られた東北最古の登り窯は震災で壊れたが、今は修復されて使われています。
宗像窯の名を広めたのは「鰊鉢」でニシンの山椒漬けに適していて東北地方で多く使われました。
柳、濱田、河井、リーチも訪れ「力強い器」と高い評価をしています。
地元の陶土やナラ灰を使用して、「生掛け」の技法を守り魅力ある作品を生み出しています。
残念なことに「鰊鉢」も「切立(甕)」も生活様式の変化により使われていませんが。
飴釉平皿 16.5㎝
白釉平皿 16.5㎝
会津銘菓
長門屋さんのファンタジア羊羹「Flay Me to The Moon]
一棹の中に、満ちてゆく月に向かって羽ばたく青い鳥の物語、切るたびに絵が変わるので
楽しいのですが、なかなか上手に切れませんでした。予想していた以上に美味しい羊羹でした。 ています。
宮城県
三輪田窯 宮城県石巻市
堤焼4世乾馬の門人として陶の技法を学んだ窯主が石巻市三輪田に窯を開きました。
石巻市三輪田でとれる土と釉薬で深みのあるブルーの器を生み出しました。
乾山の技法と精神はこの三輪田窯にも受け継がれています。
仙台は有名な銘菓がたくさんありますが、今回は震災の被害を受けた気仙沼にある(株)パルポーさんの 手作りスウィートゴットを取り上げました。スポンジとサブレ、フレンチパイの層にブレンドチョコで包み焼き上げた菓子です。
気仙沼の復興を願い少しでも応援できたらと思っています。
堤焼 宮城県仙台市
江戸時代から300年続く焼物、黒と白の釉薬を流し掛けした「海鼠釉」が特色。昭和初期に柳宗悦が訪れ「東北を代表する焼物」と高く評価しました。
最盛期には30件以上あった窯も生活様式の変化により衰退し現在「乾馬窯」1つだけになっています。
乾馬窯
1856年仙台藩が「開成丸」造船の為、陶工三浦乾也(6代尾形乾山)を招いた際に初代が乾也に師事し「乾」の字を授かり「針生乾馬」と名乗ります。
書き写すことを許された「乾山秘書」をもとに、仙台の土と釉薬を使い風土に根ざした焼き物を製作しきました。
乾馬窯にある「乾山秘書の写し」は代々引き継がれ乾山陶の技法や精神は継承されています。
(三浦乾也は6代乾山を襲名しますが恐れ多いと言って乾山の名を名乗りませんでした。そこで弟子であった浦野繁吉が6代乾山継ぐことになります
この浦野繁吉の弟子がバーナードリーチと富本憲吉で7代乾山の皆伝目録を受け取りますが、リーチは師の死後、関係者と相談の上、乾山の号は6代で終焉としました。)
海鼠釉銘々皿 16㎝
流し掛けした黒と白の海鼠釉が力強い作品
埋木釉コースター 9x10cm
500万年前から地中に埋もれていた自然木を釉薬にした作品
「埋木細工」は200年の歴史を持つ仙台の伝統工芸品
山形県
山形の民陶
昭和6年柳宗悦が訪れ山形民芸のすばらしさを評価、その後、濱田、河井も訪れ民芸運動の高まりと共に
広く知られるようになりました。
平清水焼 青龍窯
江戸時代より千歳山の麓の平清水で地元の土の鉄分を生かした「青磁」を作っていました。
「梨青磁」という作品が青龍窯の代名詞となっています。
「のし梅本舗佐藤屋」
1821年創業の老舗菓子店で完熟梅の銘菓を製造しています。
完熟梅の寒天を米粉の煎餅「ふ焼き」をスライスした生地で挟んだ菓子
「元祖うすやきせんべい」 坂田米菓
庄内地方のコメ100%を使った薄焼き煎餅
岩手県
秋田県
秋田県には伝統ある窯「白岩焼」が仙北市角館にあります。
1771年秋田藩の御用窯として開窯、地元の原料と登り窯での製作に拘った作品を生みだしてきました。
他の東北の伝統ある窯と同じく「海鼠釉」が特色で深みのある青白い美しさは濱田庄司も高く評価しました。
明治期にいったん途絶えますが見事に復活を果たしています。
白岩焼の復興には濱田庄司の尽力がありました。民芸品の収集のため何度も角館を訪れていた濱田に秋田県知事から白岩焼復興依頼があり、地質調査の後、様々な助言をして現在の白岩焼和兵衛窯が誕生しました。
角館ふるさと銘菓
さなづら日記 さなづら本舗「福寿」
山ブドウの果汁を固めて作られたゼリー状の和菓子、秋田県の銘菓にもなっています。
器 青釉白黒流描角皿
濱田庄司作
白岩焼和兵衛窯
三日月金彩、三日月皿プラチナ彩、三日月皿海鼠釉 12㎝
仙北市角館銘菓
唐土(モロコシ庵いさみや)
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楢岡焼(大仙市)
江戸末期より続く東北を代表する伝統的な窯業地の一つ。東北の土、気候等は焼き物に適しているとは言えず、
平清水焼や白岩焼等の他県の技術を取り入れ研鑚を重ねてきました。柳宗悦、濱田庄司が来窯し高い評価を
与え、民芸運動の高まりと共に楢岡焼の名は全国的に知れ渡りました
今でも秋田の天然原料、登り窯の使用と、地元の個性を大切にした制作を続けています。
特徴は、やはり青白さを持った海鼠釉です。東北の海鼠釉の作品は地域によってそれぞれ違います。
写真左から
◎紋様皿 27㎝ ◎ふき皿21x22 ◎銘々皿(青)18㎝
◎銘々皿(淡青)18㎝ ◎小判皿(白)20x14㎝
◎小判皿(青)20x14㎝
クリックで拡大します
大仙市銘菓
菓子司つじや
◎ 三杯餅 ◎とうふかまぼこ
青森県
青森県 津軽焼
1697年開窯、「大沢焼」「平清水焼」「下川原焼」「悪戸焼き」これらの地域の焼き物をまとめて津軽焼と呼びました。
大正時代にすべて途絶えますが昭和に再興されます。
「津軽千代造窯」
堤焼4代目針生乾馬に師事した小山陽久氏によって築窯、伝統を引き継ぎ風土に合った作品を作っています。
弘前市悪戸の土、釉薬は地元のワラ灰とリンゴの木灰、窯焼きの木は津軽の松と津軽の素材にこだわります。
堤焼と同じく黒と白の釉薬の流し掛け、海鼠釉が特色です。
堤焼「乾馬窯」は柳宗悦が来窯し高く評価した窯です。(宮城県の時に取り上げます。)
海鼠釉 皿
「陶工房ゆきふらし」
奥津軽五所川原市の金木町、高流山の麓に窯を構えます。五所川原は太宰治の斜陽館のあるところ、その近くにある
「太宰治疎開の家」に常設ギャラリーを構えます。五所川原には津軽金山焼が有名ですが、本作品「麻の葉」に興味を抱き取り上げました。
六角形の幾何学模様、撥水材を使い、塗られていないところに数種類の釉薬をスポイトで置いてゆく、かなり手間のかかる技法です。
シャープなデザインですが健康的で温かみを感じます。この作品が麻の葉のように発展していくことを期待します。
地域と密着した活動にも共感を感じます。
余談ですが、「船橋」も太宰とゆかりのある街です。
昭和10年から1年3か月ほどの間,居住しています。小説を書いていた割烹旅館「玉川旅館」(2020年廃業)、太宰が住まいに植えた夾竹桃の文学碑等、太宰ゆかりの地が多く残っています。
太宰本人も「船橋がもっとも愛着が深かった」と述べています。
麻の葉 大皿
弘前銘菓は平凡ですが「パティシエのりんごスティック」
北海道
北海道 岩見沢
こぶ志焼こぶ志窯
北国に春を告げる「辛夷」から名付けられた道内最古の窯で、北海道の材料での作品造りに徹しています。
海鼠釉の作品は「こぶ志窯」の礎になっています。また、白釉は磁器の白さより温かみのある柔らかい色です。
海鼠皿 5寸
白釉皿 5寸
白釉辛夷皿
岩見沢銘菓
岩見沢は玉ねぎが特産品なので「オニオンパイ」にしました。
玉ねぎは苦手なのでたべていませんが感想を聞くことにします。
「オニオンパイ」 赤いリボン有限会社
北海道 旭川市
旭川嵐山の麓に広がる丘陵に窯元が点在していて「陶芸の里」と呼ばれていたが、その後、様々な工芸家が集まり「北の嵐山」と名付けられた。
北海道は焼き物の不毛の地と言われてきたが、この辺りは良質な土が取れ、作陶環境も以前より良くなったことで自然発生的にできたものと思われる。
明治の末に堤焼の職人が旭川で神楽焼を起こしたが続きませんでした。北海道旭川の魅力を現代食器の場で広めていってほしいと思います。
旭川銘菓
「き花」 (壺屋総本店)
ダイヤモンドダストを意味する「霧華」をイメージした香ばしいアーモンドガレットの中にクーベルホワイトチョコレートが挟んであります。
サクサクとした食感で非常においしかったです。
大雪窯
旭川最古の窯元で北海道の魅力を追及している窯元さんです
千尋窯
旭川の季節の花をあしらった、ぬくもりある作品です。カタクリの花は春になるとあたり一面に咲くそうです。
藻岩窯
札幌の藻岩山の原始林は北海道最初の天然記念物で、植生の多様性は世界的にも珍しいと紹介されています。
藻岩窯はこの地の土、風土にこだわり愛着を持って作陶されています。
札幌銘菓
札幌銘菓は全国的に知られている菓子が多くて迷いましたが、風土を生かした菓子とネーミングから選びました。
クッキーはあまり食べませんが幼少のころは高級菓子だったような記憶があります。
札幌農学校ミルククッキー
三彩皿(藻岩窯)
緑釉皿(藻岩窯)
札幌に住んでいた知人から札幌銘菓といえば「山親爺」(クマの愛称)だと教えてもらいました。昭和5年より販売している
バター風味の洋風せんべいで昔より多くの文人にも親しまれてきました。札幌に住んでいた人には郷愁を誘う味だそうです。頂きましたのでこれも札幌銘菓に追加します。
山親爺(千秋庵製菓)
三彩皿(藻岩窯)
北海道銘菓、また一つ教えていただきました
北海道銘菓「わかさいも」 株式会社わかさいも本舗
サツマイモの取れない土地で「焼きいも」を作りたいとの思いから昭和5年に誕生した洞爺湖名物のお菓子です。
北海道の大福豆を使い、焼き芋のホクホク感を実現し、二つに割ると焼きイモの焦げた匂いが出るそうです。
では早速二つに割ってみました…
三彩の鶏冠壺、緑釉鶏冠壺、三彩中皿、緑釉中皿
マグカップ
ナナカマド、ブドウ、エイレンソウ、カリンズ、
スリップウェア
小皿
カタバミ、ぶどう スリップウェア