椿貞雄展示室

 ~船橋を愛した偉大な芸術家~

 


河野通勢(1895-1950)

「絣の着物を着た元気のいい中学生が絵をもって来ていた。沢山のデッサンだったと思う。高い快活な声で絵について色々と自分の納得いくまで大胆に意見を述べ

また、意見を聞いている態度をみて、この男だだ者にあらずと思った。そして彼のデッサンを見るに及んで強い圧迫を受け、こうしては居られないぞという気が強く
湧いたことを覚えている」 椿貞雄(画学生の頃ーアトリエ社1930年)ー1915年

 

 岸田宅で河野通勢に会った時の椿の印象
「河野の自由な線、不可思議なイマジネーションの力、妙に鄙びて、しかも品位がある面白い画品等がより生かされて面白いことと思う」  
                     岸田劉生 (1917年第6回草土展に際して)

 1913年、河野通勢は上高地の温泉宿で高村光太郎が同宿しているのを知り、絵を持参して批評を受け、その後多くの画家との交流のきっかけを作った 。
幼馴染の義兄だった長与善郎の紹介で1915年代々木に住む劉生を訪ねて素描を見せ才能を認められる。(長与夫人の弟が河野の幼馴染の市川忠造、妹が椿夫人、椿夫人の妹の夫が坂口安吾の義弟村山政司)
 その後、草土社に入ることになり、武者小路実篤、梅原龍三郎と知遇を得て、春陽会、大調和会、国画会と椿と同じ道を歩むことになる。没年まで国画会に所属した。

受胎告知  油彩  P6号
河野通勢 作


石井鶴三と椿貞雄

 

 石井鶴三と椿貞雄は共に1922年春陽会創立客員となり、春陽会メンバーの木村荘八、河野通勢等とともに交流を深めていった。

 石井鶴三は兄に拍亭、父親は石井鼎湖(実父に船橋生まれの鈴木鵞湖、養父は三浦乾也)で12歳の時、船橋の矢橋家に養子となり、6年間を船橋で過ごす。この船橋での体験は童話「常吉と鶏の卵」(芸術自由教育大正10年11号)に書いていて、彫刻を志すきっかけとなった。

 画家として、高村光太郎を尊敬する彫刻家として、又、中里介山の「大菩薩峠」の挿絵に代表される挿画家として等、活躍の幅を広げていった。
(春陽会の画家倉田百三の推薦により上田市の彫塑研究会の講師を48年にわたって務めて、信州の美術教育に尽力した。上田市に鶴三資料室が置かれている。

 日本の創作版画第一号と言われている山本鼎をまじかに見ていて、雑誌「平坦」に初めての版画を発表し、版画家としても活躍していく。)

                         「桃の花咲く頃」 油彩 8号

                             石井鶴三 作

 山本鼎に誘われ信州を旅した際、浅間山からの風景に魅了され、それ以来。毎年信州の山に登る


佐藤春夫と岸田劉生

岸田劉生を弔ふー佐藤春夫
 
 [自分は彼とはそう深い交わりがあったわけではない。ほんのこの四五年来、大調和美術展覧会の事や何かで時をり顔を合わせたくらいなものである。しかし、彼の芸術に就いては、殆ど二十年も前、フューザン会のころからこれを見ていた。たしかあの時は 高村光太郎氏の肖像などを出品していたように思う。その後、田中喜作氏が竹川町で経営していたガルリー田中で個人展覧会をした時には、画風が突然変わって、ヂューラーなどの影響をも窺うべき「水浴する三人の子供」などの力作があったのをはっきり記憶している。気むづかしげな沢山の「自画像」を見たせいもあったからであろうが、何となく接近しがたい人のような気がしていたのに、会ってみるとまことにこの上なしの気さくな人であった。] 

 

 美術雑誌アトリエ第7巻第二号(昭和5年2月発行)
大調和展  

 発表の場を失っていた岸田劉生を、再び画壇に登場させたいという。武者小路実篤の願いにより開催された。その為に、白樺派の画家、作家、詩人、彫刻家、評論家による審査というユニークな会が誕生した。
 昭和2年に、上野の日本美術協会にて第1回大調和展が開催された。
審査員には岸田劉生、佐藤春夫、椿貞雄、高村光太郎、武者小路実篤、梅原龍三郎、柳宗悦達がいた。

(ポスターは椿貞雄が描いた)


         詩集「我が1922年」佐藤春夫著   装画 岸田劉生


椿貞雄と坂口安吾

  坂口安吾は昭和6年(1931年)小説「黒谷村」を発表し、高い評価を得て文壇デビューする。
   この小説「黒谷村」は自然豊かな越後松之山と、安吾の姉が嫁いだ村山家がテーマになっている。
   実家に温かい繋がりを期待できない安吾は村山家の人たちに故郷を投影し、深い山々の自然を心安らぐ救いの地とした。
   姉の夫で村山家の当主真雄と弟政司とは幼いころから交流があり、気心の知れた関係であった。
   椿貞雄が松之山の村山家を訪れたのは昭和4年8月6日で17日まで逗留する。この時に安吾と会う。(村山政司夫人は椿夫人の妹で、政司は椿の義弟になる)
この時の安吾は創作苦悩から神経衰弱に陥り、自殺欲求、発狂の予感状態から抜け出し、小説家になる夢を固めた時であった。

 佐藤春夫(のちの師)を愛読していた安吾が佐藤、武者、高村、志賀直哉と交流のあった椿とどのような話をしたかの資料は見つけられないが、安吾に何らかの影響を与えたと推測される。
 村山家は今は大棟山美術博物館として安吾の多くの資料が展示公開されている(椿の作品もある)。

                           越後風景 油彩 41x53.1cm

              昭和10年椿が家族とともに松之山を訪れた時の作品

椿貞雄と木村荘八(1893-1958)

木村荘八 ー 椿君「三彩」96号昭和33年2月
「衆知のように椿君は生涯を通じて岸田をゆるがぬ師宗として、岸田を憶う心操の上に些かの混濁あることなく、この点澄み切った生活情操を堅持した一客であったが、こういう人間性格も稀に、又、近頃では人間型に追々と少なくなるものであろう。それは人間性として、一つの 「幸福」を堅持した、美しい生き方だったと僕は考えている。それでいて、岸田の「悪」を知ること、椿に上超すものなく、岸田の「誤り」を知ることも、椿以上に明察にするものはなかった。然もなお師宗を信じるに於いて微動だにしない、画人椿貞雄の度胸骨・面魂ともいうべきものである。
一朝一夕で得られる「人間型」ではなかった。」

木村荘八作品

「和田本町画室 窓外 西」

板に油彩 23.4x32,8㎝  昭和25年作

(戦後しばらくして、読売新聞に掲載された安藤鶴夫の「小唄学校」というエッセイで知られることとなった

「和田堀小唄学校」は江戸小唄に三味を教える処で、豪華な有名人の集まりになっていた。この学校が杉並区和田本町にある木村荘八の自宅兼アトリエであった。)


椿貞雄とレンブラント(昭和7年ヨーロッパ遊学にて)

「この間のオランダ行は実に見つけたものでした。何しろレンブラントの傑作をたくさん見ることができた事は本当に有難かったと思っています。彼は何と言ったって第一流の一流です。あんなえらい野郎だとは実際見当がつかなかったのです。」

                       長與善郎宛手紙(昭和7年)

「絵を見て涙を流させる人は恐らくレンブラント一人であろう。アムステルダムの美術館で晩年の彼の自画像の前に立った時に僕は泣いた。自ずと涙が流れてきたのだ。」                    新美術(昭和17年10月号)


「岸田さんには色々のことを教わった。終生の恩人だが、いよいよ古着をかなぐり捨てる時が来た気がする。これから本当に自分自身のものが生まれると言う気が強くしている。帰って仕事をするのが待ち遠しい。」 パリ通信(昭和7年)

 帰国後のレンブラントの影響が窺える昭和9年の静物画(米沢の個展に出品された作品?)


椿貞雄と武者小路実篤

「いつのまにか椿の画には隅から隅まで椿の血が通い、神経が通い、生命力が通いだした。もう椿でなければ出せない味が有機的に出てきた。見る目が椿であり、椿の心が動いて、その心が又椿を動かす。その手は四十年以上の訓練で思う通りに的確に動き、微妙な味も出せるようになっている。

椿は今でもなかなか頑固だ。つぶしのきかない処がある。それだけいかなる時も椿らしく、信頼出来。実にいい人間だと思う。
その椿の感じをここまで全力的に出せる処まで逆境や難関をふみ超え、ふみ破りして進んで来た事を祝したく思う。」

武者小路実篤  (「造形」第3巻第10号 昭和32年十一月一日発行)


椿貞雄も「造形」第3巻10号に「作家の言葉」を寄稿している。

この翌月12月29日に亡くなった。

翌33年1月6日船橋の自宅にて葬儀が執り行われた。葬儀委員長は武者小路実篤。椿は船橋市内の西福寺に埋葬され、その墓碑名

「椿の墓」は武者小路実篤の筆による。

椿にとって最後となった昭和32年の第31回国画会(国展)に「泰山木」が出品された。(ラヴィータ蔵)


バーナードリーチと洋画家「岸田劉生」の交流はリーチ来日以来長く続きました。

劉生と行動を共にしていた「船橋を愛する偉大な芸術家」椿貞雄もリーチから多くの影響を受けました。

 

 

椿貞雄と岸田劉生

「舞子図」(素描) 岸田劉生
   京の舞妓里代の像である。彼が祇園で酒びたりになり遊び暮らしていたころ、 3号に油でかいたものを、もとにして、後でこの絵を描いた。三号の油は絵の周囲を朱で塗り装飾している。それが白粉くさい舞妓の感じを一層強めている。
僕は油の方よりこの素描の方が好きだった。  

                     画道精進 椿貞雄随筆集より
(三号の油彩は2021年に京都国立近代美術館に収蔵されています)

 劉生の素描画である。或るものは油絵以上に僕は好きだし、油絵より成功したものがあると思う。 材料が単純であるだけ、その表現が直観であるだけ、美がより強く生きている。だから余韻が深い。よき素描を造る者はよき画家である。 

                     「新美術」昭和17年10月号                                    


「静物」  37.9x45.7㎝

椿貞雄  昭和30年作

「夏蜜柑苺図」 24.2x33.0

椿貞雄  昭和13年作

ヨーロッパ遊学から帰国後の充実した制作活動時期の昨品
(椿晩年の作品は明るい色調に代わって来ます)

 

新春果
「春に実るのに夏ミカンというのはどうしたわけでしょう。緑青の葉の間に黄金
に輝く夏ミカンを見ているとどうしても新春の感じです」

                           画道精進より


「牡丹」油彩 65.4x37.0cm 昭和31年

「買ってきた壺を机の上にのせて、こいつに一つ牡丹をいけて描いて見ようと思うと胸がおどり 牡丹の時期の来るのが待ち遠しい」  『画道精進」より


椿貞雄「洋梨」油彩  

      28x54㎝(毎日新聞社主催 没後10周年記念 椿貞雄回顧展出品)


岸田劉生作「三つの林檎」について ー 椿貞雄

『三つ林檎を机の上に一列に並べた絵なぞは、その構図の奇抜さといい、心を籠めた描写といい、しんと静まった画面といい、 そのくせ病気前よりはずっと明るい感じのものであった。その絵の裏に、この三つの林檎を現在の劉生親子三人に喩えて詩が かいてあった 』(1955年4月「ふさ」 劉生の最初の静物画)


『青い林檎が机の上に三つ一列にならべてある。それは如何にも淋しく静かだ、それは彼の家族3人を象徴している。 それは変に生きている。』(「アトリエ」昭和5年2月号)岸田劉生1 椿貞雄) 

作品題名 「椿花 静物」板 油彩 41x25cm 昭和29年作


『静物画は随分古くからある。宋元時代の静物写生画など驚く。
現代日本では果物や野菜や花や器物を取り扱った絵を総称して静物と言っているが、 ことに様々な材料を一画面に描いて、うまい画題のない時には、静物と言う画題にするが 誰も別に不思議にも感ぜずに使っているが、新めて考えると変な命題だという気がする。

 果物でも花でも見詰めていると実に不思議な存在の気がする。人の顔や手足を見詰めていると実に 不思議を感じるのと同じだ。彼らは呼吸をしている様だ。生き物の気がする。

 妖怪変化を感じるかと思うと反対に宗教を感じる。実玉の様な美麗に打たれるかと思うと、 山岳のような大きさと重量を感じる。リアルは実に不思議な存在だ』 (アトリエ第3巻第9号より)


 





鎌倉白旗山  (油彩 キャンパス)37.8x45.7  大正15年2月17日


関東大震災により、椿は大正14年下落合から鎌倉に移ります。鎌倉が気に入り翌年の1月鎌倉扇ヶ谷に転居、自宅を「遅遅庵」と名付けた。

近くに白旗山(現在の源氏山公園)があり、緑豊かな自然に囲まれ、脇には鎌倉七切通しの一つで国の史跡でもある、化粧坂がある。

翌年(昭和2年)6月に船橋に転居してしているので、この作品は短い鎌倉生活の間に書かれた作品です。

代々木にいた草土社時代の、岸田劉生と共に描いた「切通し」作品の名残も感じられます。

本作品は春陽会4回展(大正15年2月26日~3月20日上野公園竹の台陳列館)に出品されました。他に「鎌倉大宝寺風景」も出品されています。

鎌倉の作品は大正14年秋の「鎌倉田代山遠謀」、春陽会5回展「鎌倉扇ヶ谷風景」「鎌倉の春」「鎌倉名越風景」があります。



絵画を鑑賞してパワーアップ

船橋市主催の「椿貞雄 清川コレクション展」(12月23日終了)

緊急事態宣言が出る前に鑑賞に出かけました。

200点以上の作品が効果的に配列され、解説、考察、分析等、が詳しく書かれていて大変勉強になりました。

図録も立派で学芸員さんたちの熱い意気込みを感じました。

私の一番好きな「伊豆風景」を充分に鑑賞してパワーをもらい帰りました。

学芸員の皆様ご苦労様でした。

椿が熱心だった美術を通しての児童学習の企画にも頑張っておられる事にも

感心しています。